整理と雑記

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花譜という不可解な虚構 後編

色々なことを考えながら「不可解」当日を迎えた。

seiritozakki.hatenablog.com

私が行ったのは新宿バルト9。シアター6。キャパシティは400人ほど。私は少し前の席に座った。Twitterを見ると「#花譜不可解」がトレンド入りをしていて、事の大きさを実感していた。上映開始の少し前に後ろを見たら席が埋まってて偉く驚いた。満席だったかは分からないけど、多くの人が花譜を待ち望んでいることを実感した。

開演30分前、VTuber・ヴァーチャルシンガーからの祝福のメッセージが流れる。YuNiやミライアカリ等、私が知っているような有名な人たちもたくさん出演していた。

祝福のメッセージが終わると会場が映し出された。開演である。私は今までVtuberのライブに行ったことはなかったから、どんなものになるか想像もつかなかった。

バックバンドの人たちが入場し、花譜が映し出された。私は歌う彼女の姿を見て「いつも見ているライブと同じだ。」と思った。誰かが演奏して誰かが歌って誰かがそれを聴いている。私がライブハウスで見る日常の風景。少しだけ違うのはヴァーチャルな彼女だけ。

今になって読み返すと運営が「不可解」で挑戦したいと言っていたことを良く理解できる。

今回のライブ「不可解」は別に技術的に新しいことをやろうとしている訳では無く、むしろ昔からあった「アーティスト」を「アーティスト」らしく扱うという、ある意味でこれからの時代にとってはもはや古臭いかもしれないことに敢えて挑戦しようとしています。
花譜ファーストワンマンライブ「不可解」につきまして|不確かなものをつくります。|note

「不可解」では革新的なことは起きていなかった。そこで起きていたのは1人の女の子がライブハウスで歌うという何てことのない日常である。「不可解」が行ったのは日常の実現だった。

日常、と表現したが、花譜は彼女の環境やプライバシーの関係でそれを実現できなかった。しかし、ヴァーチャルシンガーという概念が彼女を導き、多くの人が彼女の姿を観測した。テクノロジーが観測可能な地点まで彼女を連れてきた、ということである。テクノロジーが現実が拡張した。そういう感覚があった。

花譜は既発の人気曲、新曲、カバー曲と様々な歌を披露した。その中でも特に印象的だったのはアンコールで披露された「御伽噺」だった。

御伽噺について語る上でクラウドファンディングについて触れておく。クラウドファンディングのリターンの一環としてパトロンに提供されていた映像がいくつかあった。それは鼻歌の後に花譜がこちらに語りかけてくるものだった。アンコールで披露された御伽噺の節々では聞き覚えのあるその台詞が盛り込まれていた。そこで初めてあの映像の意味が分かる。事前に提供されていたあの映像は御伽噺の一部だった。すべては1つの物語だったのだ。そこで語られたのは1人の少女の告白である。


卒業式を終えて3か月後、彼女は「君」を呼び出す。2人だけの秘密にすることを条件に彼女はある告白をしたいのだという。その告白は「彼女は未来から来た」というものだった。

続けて彼女は自分がいた未来の世界について語り始める。彼女がいたのは戦争の真っ只中の平和とはほど遠い世界。現代で当然にある権利が何もない世界。彼女はそんなディストピアから脱して現代に来たのだという。

一通り未来の世界について語った後、彼女は問いかける。自分のことを嘘つきだと思うか、と。「君」ははっきりとしたことを言わない。その姿に呆れ果てたのか、彼女は今まで話したことは全部うそなのだと言った。すべては御伽噺なのだ、と。

彼女は問いかける。

「ねえわたしのことしんじられる?」

彼女は世界に絶望して何も信じていないのだと言った。信じているのは自分と「君」の2人だけ。そして、彼女は「君」を呼び出した理由について語り始める。彼女と「君」は昔に会ったことがあるのだという。遠い昔の夏の日、2人は出会ってひばりを一緒に見に行くことを約束した。「君」は彼女に「この夏の日々を何十年だって、思い出すんだ。」と言ったのだという。

彼女は問いかける。

「あのさ。わたしのこと10年後も100年後もわすれないでいてくれる?」

しかし、「君」の答えはあいまいなまま。彼女は最後にこう言った。

「もっとちゃんといってくれないと、わからないよ。きみなんてだいっきらいだ。」


御伽話はここで終わる。彼女が語っている間、今までの空気が一変して不思議な感覚に包まれていた。あの時間はライブ全体を通して突き抜けて異質だった、と思う。それは彼女がこれまでに積み上げてきたイメージとのギャップが作り出したものだと思う。

VTuberはキャラクター付けのために様々な設定があったりすることが多いが、花譜には特筆した設定が存在しない。彼女は現実世界の出来事や自身のパーソナリティ以外を語っていなかったりする。ライブでもその印象は変わらずMCでの花譜は終始とてもナチュラルだったと思う。15歳の普通の女の子が喋ってる様子でこなれた感じもなかった。御伽噺で唐突に見せられたいつもと違う様子に「何?これは花譜の設定?」と思った人もいたんじゃないかと思う。私は少しそう思った。

御伽話がもたらしたのは、花譜もまた虚構だという実感だったのだと思う。御伽噺を聞いている途中で「ああ、これは演じているのか」と思った。そこにいたのは花譜と同じ見た目の別の少女。さっきまでMCをしていた彼女とは別の少女。花譜というヴァーチャルシンガーは魂の入れ物、媒体のようなもので、魂は別のところにあるのだよな、と思った。その時、私は虚構の向こう側にいる少女を意識した。私は花譜を通して彼女の歌を聴いているのだ、と改めて思った。

そんなことを考え始めると御伽噺の少女が言った「自分が信じられるか」という言葉が花譜が観測者である私たちへの問いかけのようにも聞こえてくる。花譜の存在の真偽は確かめようがない。彼女の存在はとてもあいまいだ。インターネットは嘘に溢れていて、それが真実なのかを見極めなくてはならない。そんな中で彼女の言葉を信じてくれるのか、彼女の存在を信じてくれるのか、そう問いかけてきているようだな、と思った。

御伽噺の少女、そして花譜という存在のあいまいさをどう捉えるのか、という悩みに対して1つのシンプルな回答、というより助言を花譜は提示している。

それはライブの最後に明かされた御伽噺の続きである。タイトルは「またね」。


「きみなんてだいっきらいだ。」と少女に言われ「君」は戸惑う。少女はそんな「君」を見て少し呆れてこう言った。

まあ、いっか。
あいまいなのもそんなに嫌いじゃないよ。
また、あえたらいいね。
またね。


少女は「君」のあいまいな態度を、そして何が真実で何が嘘かという問いをすべて保留にした。少しだけ自分のことを考えて、いつか答えが出たらその時に。答えを出すことより、それを考えることが大切なのだろう。あいまいなのも嫌いじゃない、と思った。

すべての演目が終わり、エピローグの映像が流れる。ライブに関わったスタッフの名前が流れていたことがとても印象的だった。映画でいつも流れるスタッフロールである。それは「不可解」を象徴するものだったと思う。

クラウドファンディングのページのタイトルを思い返すとこう書かれている。

みんなで作る!花譜ファーストワンマンライブ

みんなとは所謂「みんな」である。関わった人すべてをリスペクトする姿勢がそこにはあった。それは創作を世に出すにあたって至極当然のことだったのだと思う。「不可解」ではその姿勢が一貫していた。当たり前のことを当たり前に行っただけと言えばそうなのかもしれない。しかし、虚構の完成を追い求めるあまり現実を蔑ろにし、最後には虚構すらも壊れていく様子が昨今のVtuber業界では見られた。そんな様子に失望を覚えていた私にはその当たり前のことがとても尊いものに思えた。

特別なことは何も起きていないのに凄く特別な日になった。2019年8月1日はそんな「不可解」な一日だった。